日系移民
日系移民
日系コロニアルの人の苦労
(ある女性の生き方に学ぶ)
は じ め に
榎本植民団の人々
●チアパス州への移民
日本人がメキシコに移り住んだ歴史は遠く明治時代にさかのぼります。1897年(明治30年)に、榎本植民団の一行34人がメキシコ・チアパス州の地をふんだのが最初といわれています。その後も、日本より多数の移民がメキシコの大地をふみ、生活していった歴史があります。言語や文化,習慣の違いを乗り越えてメキシコで生活し続けることは大変な苦労がありました。
●今なお元気な移民一世
ここで紹介するのは春日光子さんです。長野県出身、22歳の時にメキシコの地をふみました。学校の近くに住んでおり,現在は家族に囲まれて幸せな生活をしています。しかし、その半生は写真を見て手紙を交わしただけの結婚に始まり,戦争を経て,夫と息子とビニル工場の建設にかかわり、更に日本メキシコ学院創設にかかわってきた彼女の生き方に学ぶことが多くあります。
1.メキシコに来て(1936年~1942年)
メキシコへ来たときの船上で
中央が春日光子さん
●結婚のために太平洋をわたる
1936年(明治11年)に、春日氏と結婚するために、はるばる太平洋をこえてやってきました。しかし、その結婚は文通をしただけで、一度も顔を合わせたことのない写真結婚でした。その当時、日本からメキシコまでは30日もかかるほどの長い船旅でした。
しかし、この船には,春日光子さんのように写真結婚をする二人の日本人が乗っていました。船はマンサニージョーに着き、そこからサン・ルイス・ポトシの近くのセリートスという町に行きました。
この町で、日本人が経営する店で働きました。その店は小間物・服・靴などを売っている店でした。最初は言葉がわからず、お客さんの言うスペイン語が理解できずに困ったそうです。
●メキシコに着いて
この地方は乾燥地帯であり、水がとても不足しているために、一週間に一度お風呂に入ったり、ボウフラのわいている水をわかして料理に使ったりしたそうです。この頃の一世の人たちはみんな苦労していて、夕方になると涙をこらえたりしたことがあったそうです。
また、火力発電所の電気は午後10時に止まるので、その後はローソクを頼っての生活だったそうです。しかし、メキシコ人がとても親切にしてくれたことが、うれしかったと話してくれました。
この地で長男のカルロス春日氏が誕生しました。長男カルロス氏は現在、ビニル工場のKAY工場の社長さんです。
●独立、そして大戦
やがて、夫が8年間セリートスの店で勤め終わった後、独立して近くのカルデナスの町で雑貨店を開きますが、この店がはんじょうして33m×11mの2階建ての大きな店を持つようになりました。
しかし、第2次世界大戦が始まり生活は一変します。日本とメキシコは敵国関係となり、メキシコに住む日系人はメキシコシティーやグアダラハラに移転せざるを得ませんでした。その時の様子を春日光子さんはこう語ってくれました。
「パールハーバーの戦争のニュースをラジオで知ったとき、私は次男にお乳をやっていました。急いで店にいる主人に知らせました。翌朝おそるおそる店を開けたところ「セニョーラ、われわれは勝っているぞ」などと言いながら、メキシコ人のお客様が飛び込んできて主人に抱きつくではありませんか。私たちはメキシコ人たちの情が、その時ほどありがたいと思ったことはありません。開戦でいじめられたり不愉快にさせられたことはありません。それどころか、お店はますます栄えるようになりました。しかし翌年(1942年)になるとメキシコは日本に宣戦布告をし、私たちは敵国外国人として立ち退かなければなりませんでした。いよいよ,メキシコシティーへ向けて汽車に乗る日、6歳と4歳の長男・次男、2歳の長女を連れた私たちのところに大勢の人が見送りにきてくれました。「1日も早く帰って来いよ」と言ってくれます。私はあの時のことは決して忘れません。あの人たちのことを想うと、決してメキシコには刃を向けられないと思いました。(【日墨交流史】より抜粋)
2.戦後メキシコシティーに住んで(1942年~現在)
●大戦が終わって
メキシコシティーに住んだ日本人は,アメリカ合衆国で行われたような日系人を一カ所に集めた収容生活をさせられたのではなく、普通の生活をすることができました。
やがて春日一家は、サンファン市場の近くでお菓子屋を始めました。しかし、この商売も将来性がないので、しばらくしてやめました。次に、セルロイドのおもちゃ工場を建てました。その当時、長男が日本の大学に留学中に日本でビニル加工の仕事を覚えました。メキシコに帰ってからビニル工場を作りました。これがKAY工場の前身です。家族全員で協力して仕事にあたりました。その後このビニル工場は、他に競争相手になる工場がなかったり、家族の努力もあって順調に業績をあげて今日にまできています。
●子育てにかける思い
春日光子さんは6人の子供(男子2人・女子4人)に恵まれましたが、その子育ての苦労を聞いたところ、戦争中だったので食べ物に苦労したことを話してくれました。それは,大きな鍋に牛肉や野菜などを入れて味噌鍋を作り、いつでも食べられるように準備しておいたそうです。このおかげで、6人とも健康に育ったと話してくれました。この料理を『子育て鍋』と言っていたそうです。
また、子供たちの教育にも力を入れ、4人はドイツ学校へ、2人はキリスト教の学校に通わせました。家に帰ってからは、日本語を光子さん自身が教えたそうです。そして子供たち全員を日本の大学などへ通わせました。「経済的に苦しい時期であったが、努力すると念願は叶う。」という話をしてくれました。
春日夫婦は自宅を開放して、子供たちに日本語の学校を開設しました。これが後のタクバヤ学園となり、やがて現在の日本メキシコ学院となって発展するのです。メキシコの大地に60年間住んだ女性の力強さを話の中に感じました。
●歌に託す思い
春日光子さんの趣味は歌を詠むことです。今までにメキシコの生活を詠んだ歌がたくさんあります。メキシコに移り住んだ年月を振り返った歌を一首紹介します。
何時の日か 心ゆくまで 泣ける日の
我にもあるか 泣かずに耐え来て
春日あかね(春日光子)
このページは日本メキシコ学院・日本コースの副教材「ビバ・メヒコ」よりの抜粋です。
















